2010年03月24日
史跡を訪ねて
歴史好きの夫に誘われて、島田市の諏訪原城跡に行ってきました。
そこは牧之原台地の一角(北東)に位置します。
戦国時代、武田勝頼の命により築城された山城で、国指定文化財になっています。
といっても、建築物は残っていませんが、空堀、井戸など9割の遺構がほぼ完全な形で
残されています。


山城の為、天守閣はなく天主台地には二層からなる矢倉(櫓)があり物見が常駐しており、敵の動きを
監視していました。(案内板より)
自然掘と人工の大・小掘が13本あります
カンカン井戸
城内に武田家守護神の諏訪明神が祭られたことから、
諏訪原城と呼ばれました。
そこは牧之原台地の一角(北東)に位置します。
戦国時代、武田勝頼の命により築城された山城で、国指定文化財になっています。
といっても、建築物は残っていませんが、空堀、井戸など9割の遺構がほぼ完全な形で
残されています。


山城の為、天守閣はなく天主台地には二層からなる矢倉(櫓)があり物見が常駐しており、敵の動きを
監視していました。(案内板より)



諏訪原城と呼ばれました。
菊川坂と金谷坂
諏訪原城跡の近くには旧東海道があり、石畳が続く菊川坂と金谷坂があります。
(菊川坂下り口)

(金谷坂下り口)
(金谷坂上り口)
(説明板より抜粋)
『江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは粘土質の山道だったため、
大変難儀をしていました。
このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。
この故事に因んで、菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再び蘇らせました。』
もっと詳しく知りたい方はこちらを
諏訪原城跡の近くには旧東海道があり、石畳が続く菊川坂と金谷坂があります。




(説明板より抜粋)
『江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは粘土質の山道だったため、
大変難儀をしていました。
このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。
この故事に因んで、菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再び蘇らせました。』
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Posted by よいっぱり at 22:42│Comments(0)